【廣 島 陸 軍 病 院】

独逸の鉄血宰相ビスマルクが「愚者は経験から学び,賢者は歴史から学ぶ」と述べました様に歴史を疎かにして無関心であれば60年前に広島・長崎で被爆され亡くなられた人々は浮かばれません。広島第二陸軍病院本院は爆心地から僅か800mの距離に位置し原爆炸裂後半径2000m以内の建物は全壊しましたが,第ニ陸軍病院本院階下の診療室は分厚いコンクリートで建造されていましたので軍医少尉のアルバム・日記・記録などは衣嚢に入ったまま辛うじて火災から逃れました。軍医少尉は広島第一陸軍病院江波分院を経て第二陸軍病院本院で勤務中の昭和20年8月6日午前8時過ぎに被爆しました。被爆後崩壊した瓦礫の中から奇跡的に脱出し原爆症状が出現しながらも戸坂の国民学校に辿りつき多くの軍人・軍属・民間人を治療しました。軍医少尉が残した写真に写っています大半の広島陸軍病院軍医・看護婦・医療従事者・患者は故人となられています。父親が広島陸軍病院所属の軍医でありましたので皆無といわれていました貴重な病棟及び患者・職員の写真が多数残っていましたので公開します。ここに亡くなられた全ての原爆犠牲者の御霊にご冥福を祈ります。
《注:広島に原爆が投下されたのは8時15分と公式発表されていますが,中条一雄著「原爆は本当に8時15分に落ちたのか」の客観的考察とチャルーズ・スウィーニー著「私はヒロシマ・ナガサキに原爆を投下した」の著書の中で自ら「八時十分だった。四十三秒後に爆弾が爆発する」と述べています。そして軍医少尉の手記「原爆体験記」の内容を読みますと当時陸軍病院15号病棟では8時,朝礼の為に看護婦を部屋に集合させ総員15名整列を終え正に其のときに閃光が天地一面を覆ったと記載されている点から考慮しますと8時15分より早く世界初の原爆が投下されたこととなります。歴史的記述は正確さが必要です。間違いがあればやはり訂正すべきと考えます。》


【廣島陸軍病院の変遷】

明治04年(1871年)・・・・・・・・・・・・【廣島鎮台病院】

明治18年(1885年)・・・・・・・・・・・・【廣島衛戍病院】
                    
____↓ ↓____
                   /              \
               @衛戍病院本院       A予備病院
                   ↓              ↓
昭和12年(1937年)・・・・・・・・・・・・【廣島陸軍病院】
                    
____↓ ↓____
                   /              \
               @第一分病室        A第二分病室
                 (従来の衛戍病院)   (従来の予備病院)
                   ↓              ↓   ↓
               廣島陸軍病院本院 @第一分院 A第二分院 B三瀧分院 C江波分院 D大野分院 E柳井分院
                   ↓              ↓   ↓
                   ↓              ↓   ↓
                   ↓               ↓    ↓                                   
昭和20年05月      @第二陸軍病院・・・・・・ A第一陸軍病院・・・・・ B大野陸軍病院
 (1945年)            {1}本院        {1}本院
                    {2}5の分院      {2}19の分院
                                    (江波分院等)
                                 {3}廣島赤十字病院
                                  {4}庄原赤十字病院
             
                    
                 
           
【廣島豫備病院江波分院】

1871年廣島鎮台病院が旧廣島城内に設置されました。1885年に「廣島衛戍病院」、1894年には「廣島予備病院」が開院されました。江波にあった予備病院の分院です。この絵葉書は明治時代の手彩色絵葉書「江波分院の玄関」です。



【廣島第一陸軍病院江波分院】

中島中尉殿太刀航空練習隊転属記念撮影・昭和十八年九月二十三日江波分院庶務室前にて




松浦士官・昭和十八年九月二十三日 写真うつりが悪いけれども多くの写真の中で一番よいと喜んで居た。




盛装した機会に庶務室前にて・昭和十八年九月二十三日夕方




高田士官・俗称ガンチ゛ー氏,写真では余りガンチ゛ー氏にも似て居ないがガンチ゛ー氏遂に武装す。昭和十八年九月二十三日




池原上等兵召集解除記念に沼隈郡出身の者相集ひて・昭和十八年九月二十六日 《注:沼隈郡は現在の広島県福山市です。》



病院船ぶえのすあいれす丸乗組士官河野士官来院の時・昭和十八年十月二十二日




見習士官室入り口にて・水筒が見えるのが妙に気になる。昭和十八年十月二十七日




江波分院手術担任者「右上から広長看護婦・吉良看護婦;右下から杉浦士官・高田士官」・昭和十八年十月下旬




國正大尉・安井中尉召集解除記念・昭和十八年十二月十五日



江波分院十九号入院患者と共に・昭和十九年一月九日




中山見習士官をビルマに送る・昭和十九年一月中旬




十六号東病室裏ニテ・昭和十九年四月十日



南娯楽室裏ニテ・除隊者及ビ召集解除者三十五名ヲ交ヘテ又スグオ目ニカカレルダラウ・昭和十九年二月二十九日朝




説明文無し



二号病棟栄養失調患者とその研究者の面々!!十二指腸ゾンデを何の不平も言わずに呑んだ従順さ,懐しい思い出のクランケ・昭和十九年四月十二日 《注#1:十二指腸ソンデは現在の胃内視鏡です。ゾンデはドイツ語のdie Sondeでカテーテルの意味です。#2:クランケはドイツ語の Die Kranke(複数)で患者の意味です。》




昨年十二月ヨリニ号病棟ノ栄養失調症患者ノ研究ニ来タ人々ノ顔・顔・顔!! 昭和十九年四月十二日




今田前分院長四月十五日付ヲ以テ釜山陸軍病院長ニ補セラル庶務室前ニ於テ下士官,婦長以上送別記念撮影




昭和十九年四月中旬,今を盛と咲く桜花を背景に十六号室裏にて



昭和十九年四月中旬第十六号病室三番室に入院せる船舶工兵十八連隊患者の面々(A型パラチフス)・皆回復期の者で溌剌たる姿を見よ。《注:A型パラチフスは細菌による消化器系感染です。戦前〜戦後直後にかけては日本には頻発していました。現在は日本では見られません。》



中尾三千代看護婦召集解除記念撮影,於十六号事務室裏・昭和十九年六月五日




杉浦見習士官を○○に送る。一人減り二人減り見習士官室も段々淋しくなって来る・昭和十九年六月五日
                 


説明文無し。




看護婦長大深ハッコ外四名の看護婦(十六号勤務)召集解除記念撮影・昭和十九年八月ニ十五日撮影

寒い冬の日を南方栄養失調症患者を看護しつつ昼夜兼行の努力を続けて来た面々の一部は多くの思い
出を残して去り行く




昭和十九年九月二日撮影・藤井見習士官を満州密山に送る。見習士官室も段々寂れて来る!
田中士官 中支出張にて不在 永井士官 入室中




昭和十九年九月中旬ニケ月教育召集見習士官佐々木士官外三名ノ解除記念撮影。(十九・九・一四撮影)




昭和十九年九月二十五日岡崎見習士官南京防疫給水部ニ転属決定《正面が軍医大佐木谷祐寛院長です。》
(同日撮影)



森崎・杉本・諸隈三看護婦転属記念撮影・ジョン迄一緒にいり込んで・昭和十九年十二月十八日《注:今でも私には分りませんが何故軍医が軍犬に敵国語でジョンと呼んでいたか不明です。》




時局は愈々逼迫高田士官,三成軍曹の転出を始めとして根こそぎ動員の嵐将に吹きすさばんとす。婦長下士官以上これが最後の撮影との覚悟を決めて南娯楽室前に集ふ。
昭和二十年三月ニ十六日




久方振りに見習士官のみの撮影・昭和二十年三月ニ十六日南娯楽室前にて



演芸会出演者記念撮影,俵おどりをなし好評を博す。・昭和ニ十年四月十ニ日




柴田大尉隊長教育ノ為上京さる。・昭和ニ十年四月十四日



四月九日任官の由発表あり。桜花を背景に記念撮影・昭和ニ十年四月十四日



十六号五番室患者の懇望により記念撮影・昭和ニ十年四月十四日




説明文は無し



江波分院創立記念日(殉国大和撫子出演者)・昭和ニ十年五月ニ十五日




これ以降の写真は残っていません。戦局も悪化して写真など撮影する余裕がなかったと推測します。当時の広島陸軍病院江波分院の様子が少しでもわかっていただけましたなら幸いです。この写真に写っていた看護婦さんがホームページで紹介されていましたので関係団体に問い合わせました。彼女は数年前まで語り部としてご活躍しておられましたが,残念ながら現在老人ホームに入所中で認知症がありますので昔のことは語ることは出来ませんでした。


【追加】
父の遺品を整理して出て来たものです。正真正銘当時の実物です。廣島陸軍病院(江波分院)における何かの賞品です。昭和十九年と○○士官と父の筆跡が読み取れます。







【廣島陸軍病院歌】


コロンビア・レコード会社から廣島陸軍病院歌が特別製造されていました。このようなレコードが
よく残っていたものです。
廣島陸軍病院「療養の歌」 二葉あき子・菊池章子



廣島陸軍病院歌 霧島昇




【陸軍病院食器】












【廣島陸軍病院江波分院関係】

(昭和20年05月以降廣島第一陸軍病院江波分院と呼ばれました。)


「ヒロシマの今から過去を見て回る会」の世話人戸村良人様の御好意により現在の江波分院跡の写真5枚を御提供して頂きました。
【其壱】


【其弐】4番街区の空き地


【其参】同じく4番街区の空き地


【其四】江波分院は江波トンネルを貫通する幹線道路(おさん通り)の半ばまでの拡がっていました。


【其五】5番街区の一部も含み原爆投下時この付近は被爆者が集まり大変だったそうです。筆舌につくし難い状況下であったことでしょう。


江波山から陸軍病院江波分院跡を眺める。現在一部空地として残っています。

右手が皿山でこの後方に陸軍の射撃場がありました。


江波山気象館


江波山気象館


この方向から爆風が襲いました。気象館内部の壁にはガラス片が突き刺さったまま保存されていました。




窓枠の桟が外部からの爆風で内部に曲がっています。


ヒロシマエバヤマザクラは高さ約14mの大木で推定年齢は150年。ヤマザクラのはなびらが5枚なのに対し,ヒロシマエバザクラは5−13枚。咲き方も縦長に開く八重咲きとは異なり,水平に開花し,花と枝を結ぶ花梗も,通常のヤマザクラの倍の長さがあります。爆心から3.7kmはなれていたこのヒロシマエバザクラは建物で遮蔽されて残りました。


米軍は昭和20年7月25日に広島上空から写真を撮影していました。米軍国立公文書館所蔵の資料を拡大コピーしました。江波分院は画面の下方(赤線で囲んだ部分)に広大な敷地に拡がり写っています。



広島第一陸軍病院江波分院見取図
軍医少尉は愛犬ジョンと第八号病室中庭の場所で写真を撮っていました。赤丸印がおそらく撮影場所と考えられます。




昭和20年8月9日川原四儀氏撮影の広島第一陸軍病院江波分院。本館屋根上の防空監視哨から見た分院構内で,背景の民家は江波町,船入町,その更にかなたが爆心地方面です。


戦前の江波公園の絵葉書です。





【廣島陸軍病院第二分病室関係】
(昭和20年05月以降第一陸軍病院本院と呼ばれました。)

昭和十五年二月三日陸軍省・陸支秘第一三〇八号の「広島陸軍病院臨時分院開設の件」の通達で以後広島陸軍病院基町第二臨時病院と呼称されるとの文献がありました。(1)広島陸軍病院基町第一臨時分院(基町二在リシ第一分病室)(2)広島陸軍病院基町第二臨時分院(基町二在リシ第二分病室)(3)広島陸軍病院三瀧臨時分院(三瀧ニ在リシ分病室)(4)広島陸軍病院江波臨時分院(江波ニ在リシ分病室)の四臨時分院に増院されました。

昭和十三年八月頃の廣島陸軍病院第二分病室




























【廣島衛戍病院関係】
昭和20年05月以降第二陸軍病院本院と呼ばれました。)

第十五号病棟・軍医少尉は昭和20年8月5日から8月6日にかけてこの階下の医官室で宿直していました。よく葉書として残っていたものです。



太田川沿に位置した場所に養神閣がありました。遠方にみえるのが三篠橋と思われます。


衛戍病院の表門・正面には第16号病室(外科)が見えます。


廣島衛戍病院基町分病舎(昭和20年05月以降廣島第一陸軍病院本院と呼ばれました。)



第十三号病棟(内科病棟)この北側奥に第十五病棟(内科病棟)がありました。同じ様な造りでありました。


兵舎(第十五病棟の西側にありました。)この写真の奥に白く写っています木造建造物が第15号病棟です。


養神閣(太田川沿いに建てられていました。)


病棟内の庭園です。


外科手術室です。


調剤室です。


第一物寮室



第二物寮室


廣島衛戍病院絵葉書12枚入りの封筒



廣島衛戍病院全景


















廣島第二陸軍病院の見取り図も生き残りの職員達により証言,資料集そして写真等々を参考にしてご尽力され作成されました。赤丸印が昭和20年8月6日にこの病室内で軍医少尉が朝礼を行っていました第15号病棟です。


各室の詳細な記録により昭和20年8月5日に軍医少尉が当直していました階下の部屋(赤丸印7番)
と8月6日に被爆した場所(赤丸印2番の処置室)も正確に判明しました。第13号病棟も第15病棟も
同じ造りでした。



【廣島第二陸軍病院関係】

広島城周囲は中国軍管区司令部があった場所で廣島第二陸軍病院本院は広島城天守閣の西方に位置し太田川沿いにありました。(注:赤線で囲んだ部分です。)この航空写真は昭和20年7月25日に米軍により撮影されたものです。米国国立公文書館所有より引用しました。





上の写真を更に拡大したものです。廣島第二陸軍病院本院は太田川沿いにありました。
#1:15病棟(内科) #2:13病棟(内科) #3:17病棟(外科) 16病棟(外科)


同じく昭和20年8月8日に撮影された原爆投下後の航空写真
#1:15病棟跡 #2:13病棟跡 #3:17病棟跡 #4:16病棟跡


護国神社から北面を望む。かろうじて第二陸軍病院の炊事場の煙突のみが一本残っています。左の河川は太田川です。



【当日15号病棟内でで被曝した看護婦】
現在87歳でお元気で北海道江差に在住の看護婦・写真撮影時20歳
8月5日宿直で8月6日朝8時申し送りをしていて被曝されました。軍医少尉も
病棟婦長も第15号病棟にいました。写真を公表しても良いとの許可をえました。

 











陸軍病院看護婦の前襟に付けました。戦争末期には看護帽に付けたそうです。


15号内科病棟の患者と看護婦達(太田川沿いの陸軍病院内で)
エ(タクミ)君子看護婦、井川幸子看護婦、横山信枝看護婦は被曝直後故人となられました。



広島第二陸軍病院は爆心地から僅か800mの距離に位置し被爆当時の入院患者750名,職員330名の合計約1100名の人数がおりました。被爆で炊事場の煙突一本を残して全病棟が倒壊・全焼しました。即死90名を含む死亡率75.3%でした。広島市中区基町17太田川土手には第二陸軍病院の裏門の石柱が残っていました。
(平成19年04月01日撮影)




この慰霊碑は廣島第一陸軍病院の門柱を土台として建てられました。


当時は第二広島陸軍病院本院から東望すれば国宝廣島城天守閣の雄姿が見えていました。現在はこの写真のように戦後昭和33年に建てられた広島城が同様に見られます。


戦前の国宝廣島城天守閣











昭和ニ十年(1945)八月六日広島が人類最初の原子爆弾により,一瞬にして二十数万の尊い犠牲者を生じるに至った。爆心地に極めて近かった元広島陸軍病院に勤務の職員以下及び入院中の患者等で被爆死された方々の御霊を永遠にお祀りするため,同病院関係の生存者で職員,その他有志並びに遺族賛助者等により,広島陸軍病院原爆慰霊会を結成し昭和三十年八月六日原爆十周年を記念しこの病院跡に当時の表門石柱を碑とし台石は全部同病院の庭石等を用い,ここに「広島陸軍病院原爆慰霊碑」を建立した。ついて同五十年八月六日三十周年記念行事として合祀名碑の建立並びに同病院の遺跡(明治以来の記念碑及び被爆当時の裏門石柱など)保存と併せて敷地の整備をも計画し昭和五十二年八月六日完成するに至った。御霊よ どうぞ 安らかに お眠り下さい 合掌 昭和五十二年八月六日 誌之 広島陸軍病院原爆慰霊会


慰霊碑の裏面には第二陸軍病院の木谷祐寛軍医大佐院長と成川俊光軍医中尉の氏名もありました。《注:軍医少尉は被爆前日送別会の帰り成川軍医中尉の自転車に乗せてもらい病院に帰りました。成川軍医中尉は医学講義もおこなっておられました。この慰霊碑でお名前を見つけて被爆死されたとわかりました。》







【付加】

明治時代の軍隊手帳
この手帳の所有者は広島の騎兵第5連隊に所属し明治33年義和団の北清事変に出動、明治37年日露戦争に従軍したとの軍隊手帳の軍履歴に記載されていました。廣島予備病院の名前も記載されています。








【廣島衛戍病院に入院中の兵士宛ての封筒】



【廣島陸軍病院基町第一分院から投函された葉書】
廣島陸軍病院第一分院は護国神社と西練兵場の間に位置して建てられていました。


【戦傷病者用2銭葉書】
昭和15年2月4日広島陸軍病院江波分院16病室から投函された葉書です。支那事変が勃発した際,広島陸軍病院は江波に分病室を増設しました。当初「分病室」と呼ばれましたがのちに「分院」と呼称されました。16病室は結核病棟でした。


【廣島陸軍病院の徽章】
看護婦等職員が右襟に着用しているのを見かけます。稀少な廣島陸軍病院の資料です。



【明治28年の廣島市街全図】
明治28年発行の希少な廣島市街地図です。








【1890年代の廣島市街全図】


日清戦争の際に廣島に大本営を移し,臨時帝國議会を開催しました。当時の廣島の地図です。
●1が廣島鎮台(現在の廣島城) ●2が後の広島第一陸軍病院江波分院になる場所です。


●1が衛戍病院(後の廣島第二陸軍病院本院) ●2が臨時病院(後の廣島第一陸軍病院本院)






【大正九年頃の廣島市街全図】

廣島第二陸軍病院本院は当時「衛戍病院」と呼ばれていました。廣島第一陸軍病院本院は「予備病院」と呼ばれていました。当時の実物の地図です。
中心の赤印は「第五師団司令部」です。
●1が衛戍病院(後の廣島第ニ陸軍病院本院です。) ●2が予備病院(後の廣島第一陸軍病院本院です。)




【大正十ニ年頃の廣島市街全図】

●1:衛戍病院(後の廣島第二陸軍病院本院です。)   ●2:後の江波分院




【廣島市鳥瞰昭和産業博覧会会場図・昭和四年】

昭和産業博覧会は昭和四年三月ニ十日から昭和四年五月十三日までの期間廣島で開催されました。


●1が広島第二陸軍病院です。 ●2が広島第一陸軍病院です。


●3が広島第一陸軍病院江波分院となる場所です。昭和四年には養魚池しか見られません。





【HIROSHIMA・原爆八連図 鳥瞰図 吉田初三郎】

廣島図書の松井富一氏より依頼を受け、入市した吉田初三郎が被爆者数百人の証言を得て、原爆投下された8月6日の朝や、正にその瞬間を描きました。被爆地広島に長期滞在したことで二次被曝をして自ら原爆症にかかりますが、原爆の悲惨さや「美しい国の変わり果てた痛々しいを世に伝えたく渾身の思いが伝つて来ます。外国人に向けて作成された非常に希少な英文グラフ誌です。



















【廣島観光案内図絵・鳥瞰図古地図】



#1:廣島第二陸軍病院 #2:廣島城




【昭和五年頃の廣島市街図】


戦前の廣島市街地図です。
●1が衛戍病院(後の廣島第二陸軍病院本院) ●2が分病室(後の廣島第一陸軍病院本院)




【昭和十八年の廣島市街図】

昭和十八年は山本五十六連合艦隊指令長官の搭乗機が撃墜され,アッツ島守備隊玉砕と戦況も悪化してきました。
当時の廣島の市街地図が残っていました。原爆が投下される前の希少な地図です。

●1が広島第二陸軍病院本院です。 ●2が廣島第一陸軍病院本院です。 ●3が廣島第一陸軍病院江波分院です。




【付加】

ここに提示しました衛戍病院の絵葉書と廣島陸軍病院第二分病室の写真帖の写真は他で現存する写真は見られない為に広島平和記念資料館(原爆資料館)と広島市公文書館に永久保存されることとなりました。(平成20年09月19日)






【肥田先生との60年ぶりの再会】                           【TOP】